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技能のデジタル化の過信



森 和夫  技術・技能教育研究所



デジタル化は結果だけである
技能は目で見える形にすれば伝わりやすい。そこで、「技能のデジタル化」を進めようとするが、そうは簡単にデジタル化はできないことに気づく。人間はデジタルで仕事しているのではない。結果として、行為、行動がデジタルで整理するとどうなっているかを明らかにしたに過ぎない。例えば1/1000秒の判断をしていると結果が出たとしても、それは結果としての数値であって、熟練者は無意識に行動しているだけだ。ハンダ技能で、実際に計測したところ、そのような数値が出た。しかし、熟練者は別の視点でコントロールしていたのだ。ハンダが流れる瞬間を判定していたのである。製品の状況を観察して一定の状態になったときに運動していたのだ。だから、「ハンダが流れる瞬間の判定」が大切なのである。1/1000秒をどうやって出すかが問題ではないのである。

デジタル化とデジタル表現とは違う
デジタル化という言葉には、運動や行為を数値化しようとする意図がある。デジタル表現は数値を用いて表現しようとすることだ。これらは全く違う。技能マニュアルや技能分析表ではデジタル表現を入れるように努力している。デジタル化は必要に応じて最低限あればよいものだ。現在行われている技能のデジタル化研究の成果は見るべきものが少ないのは、別の意図が働いているからだ。技能をデジタル化すればロボットの開発に利用できるとか、複雑な技能を単純化できるとかの意図が少なからず働いている。熟練者をある部屋に入れてそこで作業すると全ての行動がデジタル化してデータベースができる研究をしたいと言われていたのを聞いたことがある。これはデジタル化の過信とも言える。技能を神格化するわけではないが、それが仮にできたとして、何の意味があるのだろうか。

デジタル化は判断機能の解明には至らない
動作の一側面についてデジタル化ができたとしても、最も重要な判断機能については何の検証もされることはない。人間の精神機能を人体の電位の変化から推測することはできるが、これも息の長い長期のデータの蓄積によらなければ判定の妥当性は高くできない。例えば脳波や皮膚抵抗値の変化で熟練を捉えようとしてできたとしても、それはごく単純な作業に限定して実験するのであって、実作業のような複雑な状況下で行うものとは違う。

技能はデジタル化の枠には入りきらない
人間の行為、行動は自然体で活動している。デジタル化で一見、わかったように見えるが、技能はデジタル化の枠には収まりきれないものである。例えば色味の判定をデジタル化しようとして判定の一部分を明らかにはできるが、条件の変化によって対応する人間の判定は解明が困難であろう。そこで、一定の条件下のデジタル化をするが、限界がある。もともと研究は条件設定と方法と結果の因果関係を追究する。だから、この条件が多い場合には難しくなるものだ。それを1つの条件がそのようになったからと言って全ての条件について推測するのは検証ではなく、予想に過ぎない。

デジタル化のできる範囲を限定すべき
技能にデジタル化の考えを入れるのは不毛のこととは言ってはいない。範囲を限定して行うことはむしろ成果をもたらす。その成果を何に使うか、何を推測するかは研究者の良心に依存するが、これを越えて論理を立てたがる論文もあるようだ。そこに気づかずに技能のデジタル化をすることは慎まなければならない。






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詳しくは「技の学び方・教え方」をご覧ください。
これまでの技能研究の中から、技を学ぼうとする方々や教える方々にメッセージを送ります。
技を学ぶということを中心にしながら、さまざまなノウハウをブックにまとめている。

目次
第1章 技を学ぶとはどのようなことか
第2章 職人の技と生き方から学ぶ
第3章 技能研究でわかったこと-技が上達するとはどのようになることか-
第4章 作業段取りは技の中央制御室
第5章 機械の運転操作技能を学ぶ
第6章 技を伝えるには
第7章 技能の種類と学び方・教え方
第8章 高度な複合技能の学び方
脚注
あとがき